
幸いにも、最初の一つは冷静に謝ったことで事なきを得た。それに、つい先程の車にしたって、私の駆ける速度が少し遅ければ…、恐らく撥(は)ね飛ばされていたのだ。私が軌跡を描いたそれぞれのゴフンという時間、その時間には諸々の起こり得る状況を含み、そしてそこに私の判断が加味される。しかもそれは、計算しようのない瞬時の判断である。
「どうかしやはりました?」と悟君が、黙ってただ歩く私に問いかけた。「? いや、なにもない…」と応じたが、頭の一部では、“このことについては考えてみる余地がある”などと巡っていた。よく考えてみれば、悟君は進行方向の私に従って歩き続けている。ということは、彼はもと来た道を引き返しているということになる。
「君、なにか用があったのと違うんか?」
私は、なおも追従して歩く悟君へ、思わず問いかけた。彼は一瞬たじろいだが、「えっ? ええんですわ…」と構わず歩む。
「そうか?」と発した私は、次第に指へ食い込む買物袋の重さを意識し始めた。もう家が間近に迫っていた。
「寄っていくか?」と消極的に訊ねると、「ほな、そうさせて貰いますわ」と積極的に返してくる。遠慮のない奴だな…とは思ったが、その無神経さは頼もしくもある。
家に着いて茶などを勧める。互いにコレといった話題があるでもなく、暫(しばら)くゆったりと寛(くつろ)ぐ。やがて私は何を思ったのか、「悟君、俺のこの話しどう思う?」と口にした。
「えっ? なんです?」と彼は虚(うつ)ろな表情で私を見た。
「何? と訊かれても、はいこれって答えられる筋の話じゃないんやけどね…」
「小難しいでんな…。で?」
「まあそう急かすなよ。これからゆっくり話をするからさあ…、茶でも啜ってくれ」
悟君は膝を乗り出してきたが、出鼻を挫(くじ)かれて決まり悪く茶を啜った。
「実はだな、人の判断についてなんだが…」
少し抽象化し過ぎたため、悟君は何のことだ? という怪訝(けげん)な表情で私を見る。
「ちょいと漠然とした話なんだが、笑わず聞いてくれよ」と私は前置きし、話の本筋へと入った。
「悟君はゴフンで…、つまり感覚的な時間の長さなんだけど、こうだって把握できる?」
「っと、いうと?」
まだ抽象っぽいのか、彼は私の話を解せないふうである。
「例えば君がバスを待っていたとする。すると、待っているバスがあとゴフンで来るとするわな。その待っている時間の長さの感覚なんだけど、丁度、これくらいっていうの? それだよ…」
「感覚的なもんなんでしょ? それを口で表現せえちゅうても…難しいですわ。なんか禅問答みたいでんな?」
思わず二人は吹き出してしまった。笑いが終息すると暫(しば)し沈黙が続く。確かに馬鹿げた問いかけではある。
「最近なんやけどさ、二度ほどこのことで思い当たることがあってね…」
私は遂に言いたいことを口にした。
「どないなことです?」
「一度目は例の苦情の件、それに今し方の君も見ていた交差点のハプニングなんかだ」
「苦情の一件は分からしませんけど、後のやつは偶然でしょ?」
「悟君よ、それを偶然で片づけてしまえば、話はそれだけのもんだよ。そこに介在したゴフンという時間の存在を考えると、ちょっとだけ妙なもんだよ」と話すと、間髪入れず、「と、いうと?」と悟君は面白くなってきたのか、ふたたび身を乗り出した。魚を釣り上げた格好だ。
雨は雨勢を弱めつつあった。
「もしもだ、俺が前方で君を見つけ、駆け出さずに渡ったとするわな。どうなる?」と訊くと、「タイミングがさっきの場合、遅れとったら命取りですな…」と、すぐ悟君は返した。
「なっ、そうだろ。そんなもんなんだよ。咄嗟(とっさ)で身体が反応して君の方へ両脚が進む。その速度は俺の脳細胞が指示を出している。相手の車にしたってそうだ。運転手は、たぶん急いでいたんだろうな。恐らく黄から緑へ変わる直前に発信したとみえる。それも彼の脳細胞が命じたことなんだよな」
「…それは、そうですわな」と悟君、いよいよ聴く耳となつて相槌を入れる。
櫓(やぐら)炬燵(ごたつ)が心地よい程度に暖かく、部屋内の冷気は余り気にならない。ストーブもある。
「しかしだ。彼がもうちょっと早めに、つまり黄信号になった瞬間に急発進していたらどうだっただろう? …恐らく俺は撥(は)ね飛ばされていたに違いない。…と、まあこうゆうことだよ」
勿体ぶって論理を進める私に、ただ「なるほど…」とだけ悟君は頷(うなず)くが、全く要領を得ない塩梅(あんばい)の表情である。私がいったい何が言いたいのか、そこのところが今一、分からないのだろう。私にしても、自分の論理が単なる独りよがりかも知れないという不確実さがある。で、悟君に語っている訳なのだが、…要は、私も同調者が欲しいのだ。妻がいれば話し相手にもなるが、一人身では如何ともし難い。
「他にも、そう思わはったことがあるんで?」
急に話の矛先(ほこさき)を悟君は変えた。
「ああ…、例の一件で苦情の電話を受けたことがあってさ、それが原因で今こんなことを考えるのかもしれない。平謝りで謝ったんだが、あのとき耐えずにカッとなっていたら…と、思う訳さ」
「そうゆうことて、ようありますわな」
「耐えるっていうのは俺の脳が命じてるんだし、話す相手だって俺が下手にでてるからそれ以上は怒れないんだな。だから次第に興奮が冷めてしまう。ということは、結局のところ冷静に会話が終了すると。まあこういうことだ」
私は本音を語ってはいるのだが、実のところ曖昧(あいまい)な論理の展開で、要旨は語っていないことになる。
「今日は、ゆっくりしていけるんだろ?」
話が乗ってきたからか、今度は私の方から悟君を留(と)めにかかった。
「はい、別に構いはしまへんけど…」
「なら、ちょっと待ってよ。腹も減ってきたことだし、チャーハンでも作るから」と私は炬燵(こたつ)をノソッと出て炊事場へ動き始めた。
「あっ、僕は構わんといて下はいよ」
後方から悟君の訛った遠慮気味な声が届いたが、それには返さず調理を続けた。
「判断の迷路に立ったとき、人間は様々な対応を考える。それもだ、瞬(またた)きで考えにゃならんこともある。その結果で、運命なんて脆(もろ)くも変わっちまうが、その瞬間に至る前、そしてその後の軌跡を含めたゴフンという時間、これは妙なもんだぜ…」と、時たま後ろの悟君を振り返る。彼は暫(しばら)く聴き手に回っていたが、「何か調べたはるんでっか?」と急に窺(うかが)った。
続